=僕の曽爾高原昔話=
今から27年程前僕が中学一年だか二年だかの頃にラジコンを飛ばしに(現在はラジコンはNGのはず)お世話に成った小学校の放送部(僕は部長だった)の先生や近所のおじさんやお兄さん方に連れられて来たのがこの曽爾高原でした。その頃はどうやら高原の中に車やバイクで入れたらしく(本当は駄目だった様だが)車で入ろうとした我々を偉い勢いで怒鳴るお爺さんが居たのです。そのお爺さんは実は曽爾高原で駐車場(上から2段目のトイレやら有る方でその頃はPはここのみ)をお婆さんと御夫婦で営んで居られる方でした。一緒に行った大人の考えは「お爺さんは駐車料金を儲けたいから怒ってる」って物でしたがお爺さんの真意は曽爾高原を愛するからでした。子供心に偉いおっかない爺さんだと思ったのですが、ラジコン遊びを終えて駐車場に帰って来た僕達を満面の笑顔で迎えてくれたのもこのお爺さんそしてお婆さんだったのです。やがて世間話が始まり帰り際にノートが差し出され曽爾高原に来てくれて出会った人に記念に書いてもらってるとの事でした。それ以来曽爾高原と言えばこのノートが思い出されるくらい僕の中に残る出来事だったのです。
しかし、この時点で中学生だった僕は再び曽爾高原に行きたくても自力で行くには遠すぎるうえに手段が有りません。僕が再び曽爾高原を訪れるのは車の免許を取ってからの事でした。
ある日自分の運転で初めて来た曽爾高原、やっとの思いで到着、駐車場に車を預けるとあの時のお爺さんお婆さんが居られました。お二人にとっては憶えておられないでしょうが僕にとっては嬉しい再会でした。曽爾高原を散歩して駐車場に戻りあの時の出来事を話すととっても喜んでくださり再び記帳を薦められ楽しい時間が流れました。
それから何年かして訪れると新しく上に駐車場(一番上のやつ)が出来ていました。新しく成った事をネタに駐車場のおばちゃん(先日の人)に下のお爺さんの事を聞くとお婆さんは元気なのだけどお爺さんは去年亡くなられたとの事。僕は思い出のノートの事を告げるとここでもまた記帳を薦められた記憶が。おばちゃん曰く、「お爺さんは本当に心から曽爾高原を愛しておられました」との事。それで高原の駐車場と下の村を毎日歩いて通っていた(今の広い道は有りませんでした)のだそうです。いつだったか高原でマムシに咬まれた時も独り村まで歩いて下りて診療所に行き血清を打ってもらったそうです。それくらい元気だったお爺さんも結局は病には勝てなかったそうです。そして、亡くなるまで「これが治ったらまた高原に登る」とおっしゃってたというのがとても印象に残ったのです。
そんな曽爾高原だからというかそんなお爺さんの居た曽爾高原だから僕は好きに成り皆にも知ってもらいたくて暇が有ると「曽爾高原行こう」と誘って来たのだと思います。もはやぼくの血中には『グリコーゲン』ではなく『ソニコーゲン』が流れてるのかもしれないくらい。(爆)
それから暫くして夕方訪れた事が有ったのですが、夕方で営業の終わった無人の駐車場にかつてお爺さんとお婆さんが営業されてた小屋(現ニ段目駐車場兼キャンプ場の炊事小屋の所に有りました)がひっそりと物静かに建っていました。とっても話し好きだった主人を失った小屋にはもう人が集まって来る事も無くこれがあの時お爺さんお婆さんと楽しく話したあの同じ小屋なのだろうかと思う程ガラスは割れて荒れ放題な状態でした。その割れたガラスから中を覗くと涙が止まらなく成りました。
25〜7歳位の時バイクで行った曽爾高原
それから暫くして『曽爾』言う曲まで作りましたし現在に至まで曽爾高原には宜しくお付き合いいただいております。いつだったか秋の満月の日に思いつきでぶらっと曽爾高原にやって来たのですが、乾いた空気の中、月明りに照らされた一面のススキの穂が銀色に輝き風の悪戯でその棚引きが波打つ幻想的な世界を体験したのですがカメラを持参しなかった事を今でも後悔してて今でもお月見の辺でカメラ持って出掛けたりもするのですがあれから10何年経ちますが未だにあの景色には出会してないのです。またこれは少し命がけですが、真冬の白銀の曽爾高原も素晴らしかったです。
曽爾を愛したお爺さんはもう居ないけど、高原ではお爺さんが居た頃と同じ様に春には草花や動物が目を覚まし、 夏にはいちめんススキが緑に茂り、 秋にはススキの穂が開き、 冬には積った雪でいちめんの銀世界を見る事が出来ます。
みなさんが曽爾を訪れた時思い出してみて下さいね。 曽爾高原を愛し、そこを訪れる人達とのふれあいを楽しみに毎日下の村から高原の駐車場まで通った 老人夫婦が居た事を。
2004/28/Sep
by,おっちゃん
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